呼びかけ・大滝陸奥先生の会

●呼びかけ
ねずみ年の新年よろしくお願い致します。この度、近藤君平井君を介しての呼びかけに応じ、原稿をお寄せ下さり有難うございます。かつて近藤君は私の神田小学校低学年の頃の同級生で西神田の私の家に何回か遊びに来たことがありました。それが、何年か前、彼が子猫クラスの同級会に特別参加したことで、久しぶりに再会した訳です。
東京でも、平井君との交流の中で、近藤君とも会うことがあり、そのときに、追悼文集の話が出ました。ただ、しっかりした本にいたしますと、手間や費用、それに大滝桂子先生にも負担をかけてしまうことから計画を中止していました。しかし今回、あゆみの会のメンバーより東京に原稿が寄せられてきたことから、なんとか活かしていく方法がないものかと考えました。
近藤、平井両君とも現在忙しいとのことで、木村さんとも連絡をとり、教師現役中の私(棚橋)が代行し、気楽な形で学級便り・文集的なものを発行させていただくことになりました。大滝先生の影響で教師になり、学級だよりや一枚文集など配布経験が多少あるので、仮題を設定し「学級便り」形式で不定期に気楽な形をとらせていただきます。こうすれば無理はないと考えているわけです。
教師生活を振り返って、つくづく思うことは教師というものは、「亡くなってからも影響力を発揮するものなんだな」と、いうことです。そういう出来事があると、「じゃあ昔の仲間で集まろうや」てなことで、ワーと集まり、同級会が復活したりします。しばらく途絶えていた級友や同級生とも交流が復活します。最近のこねこクラスの同級会はまさにそれですね。あゆみの会の皆様も頑張ってください。
大滝先生の遺徳を偲び、とりあえず第一歩を踏み出します。
2008平成20年2月2日(土)  こねこクラス 棚橋和明

● 発起人の一人 近藤 僚三君は次の手紙を棚橋、平井(三太)に送り2008平成20年9月6日、故大滝陸奥先生の命日と同じ日に急死してしまいました。意志を継いで今回ブログの形で再出発しようとしています。皆様には何分宜しくご理解お願い申し上げます。 三太(こねこクラス)

◎前略、中略・・・棚橋作成のエピソードは、三太だけでなく、木村さんたちの学年にも大反響をもたらしているようです。三太の言うようにブログの作成を考えてもよい(桂子先生の精神的負担のないようにして)のかもしれませんね。
      2007平成19年6月25日 近 藤 僚 三 (第二次こねこクラス)


大滝先生が伝えたこと。三太・平井 真夫

キャッチand リリース

大学を出たばかりの大滝陸奥という新任先生は、我々小学三年の子供たちの心をいち早くキャッチしたと思う。本人がどれだけ確信を持って私たちに接し実践したのかは定かではない。子供たちからすればとても怖くて同時に頼もしい一人の大人であった。数十年も前から生きてきた自信に満ち溢れた大人であった。昭和30年代初め、当時子供は十羽一からげで個性なんて気にしてくれる人もいなかった時代、大滝先生は子供たちに何か自分は特別な人間なのだと感じさせてくる人であった。そしてクラスの子供はお互いを守り合う特別な仲間だと感じさせてくれた。しかし現代の子供たちは生まれたときから歯止め無く甘やかされ、自分だけは、わが子だけは特別という環境で集団生活を過ごしているように思われる。生意気な餓鬼や弱々しいもやしっ子が多くて困っているが、その昔約50年前であれば先生や私たちの接し方がどんな事だったのか、そして私たちに何を教え、何を残し、何を共有しようとしていたのか、この年になってもう一度考えてみたく筆を執った。

昭和31年 小学3年の我々のクラスは『こねこ』と名付けられ、何となく特別なクラスとなった。人はなぜご飯を食べ、何で勉強をしなければいけないのか、『雨にも負けず』の文章などを見える所に貼り付け、分かりやすい理念を掲げていた。
1.2年ではニックネームの無かった子供たちに沢山のあだ名を付け、親しみを込めて呼んでくれた。子供同士もすぐにお互いを呼び合い特別なもの同志に感じてきたものだ。可愛いとかでなくその時の気分で付けられたものだから、今となっては呼びにくいあだ名もある。私は『三太』を大切な宝物にしている。女の子は『三ちゃん』と呼んでくれた。初め風呂屋の息子だからと風呂屋の三助でどうだと言われた、ショックだったことを思い出す。1.2年から一緒だった親友河口君が三助は可哀想だと抗議してくれ、映画で見たばかりの『おらー三太だー!』から三太にしたらと言ってくれた。私はおおいに助けられたわけである。相撲で『けたぐり』の必殺技を持つ親友長部君は、掃除の時の姿が『あねさんかぶり』で女の子のようだと『ねえちゃん』と名付けられた。今となっては呼びにくい。『リキ』『とこ』『のっぽ』『ヨコ』・・・又皆に会いたいものだ。余談になるが5年のクラスになると、新任でバリバリ元気で素敵な渡辺先生に大滝方式が引き継がれ、あだ名で呼びあう、仲が良くて活発なクラスがもう一つ出現した。昭和三十年前半の当時、地方都市長岡の小学校としては革新的なやり方で、若手の先生や新しい教育を受けた先生方には、魅力的なクラスの運営方式であったろう。反発もあったと思われるがやはり先駆者大滝先生の影響である。

教室の机の配置は面白かった。先生を取り囲むように工夫されており、窓側と廊下側二列分が内側に向いていた。4つのゾーンに分かれていたので自分の場所が分りやすく、今でも自分がどこにいたか、何回かの席替え毎に覚えているし、自分のとなりが誰だったかも懐かしく想い出せる。そして席を決めるのが大変であった。先生は全てに自分の意思を示すことを求めていた。基本的に自分が並びたい人を紙に書き箱にいれるのである。子供に随分きついことをさせたとも思うが、これらによって三太は自分の意思をはっきりさせなければ何も始まらないことを学んだ。初めての席替えのとき決心が出来なかったが、それを教訓に次回からは、自分で意思を示した気がしている。私はこの年になっても会いたいときには友達に会いに行く。時間はいつも今しかないそんな気がしている。ただし並びたい人は異性に指定されていた。親友と並びたいと主張したが、しっかり否決された。やはり女の子の名前を書くのは恥ずかしかった。どうして男と結婚出来ないのか分らなかった歳でもあった。先生に息子が誕生して、なんとなく理解したような気がしている。自分の意見は『はっきり言う』習慣を大滝先生から学んだ。もっとも言い過ぎて苦労もしているが・・・。

親友河口くんはクラスの中で大きくて目立つ存在だった。ある日二つ違いの上級生に喧嘩を売られた。普段見たことのない河口君の悔しそうな顔に我慢できず、私は授業開始前に先生に理不尽な言いがかりだと発言した。大滝先生は即座に『上級生を呼んで来い!』と言い、何人かで授業中の上級生のクラスの先生に事情を話し、当人を我がクラスに呼びつけた。少し乱暴のようであるが、普段から乱暴な子で担任も理解してくれたのであろう。正式に謝らせたのである。クラスの皆と先生の理解により私たちは団結すれば大きなものにも立ち向かえることを覚えたのである。これを機会に『こねこ』はなにかと一致団結するようになった。しかし今度は三太も奴に狙われ危ないからと、上級生の親しいお兄ちゃんから相撲の技『呼び戻し風首投げ』を伝授してもらった。自信は付いたがやはり一人では怖かった、友達となら勝てそうだったことから、力を合わせて立ち向かうことを学んだ。このことはのちに建築の仕事をする上で大変な力となったし、楽しいことであった。喜びや苦労を分かち合うことは楽しいし力も湧いてくる。誰かのために自分が役立てることは嬉しいものだ。

こねこの文章を書く時は本棚から昔の集合写真を出して見ている。懐かしくて喧嘩した子でも会いたい、いろんな奴に会いたい。親猫大滝陸奥はもういない、リキのほか何人かはあちらの空の上に行ってしまった。記念写真は四年最後の冬に撮影した。本当に寂しくなるなんて思ってもいなかった、漠然と生きていたし、なんとなく並んだように思うがやはり親猫が仕切って位置決めをした記憶がある。構図は悪いし、早くから黄ばんでしまったが、綺麗な写真で大好きだ。写真代金を払った記憶も無いから先生の自腹だろう、私費で思い出を残してくれた親猫大滝陸奥に感謝!!!もうあなたの年をとっくに追い越してしまいました。勿論桂子先生もね!
五年のクラス編成で先生のクラスに入れなかった、自分は先生と一緒だと信じていたからショックは大きかった、捨てられた気がしたものだ。今思うと心配な子や面倒を見なければいけない子もいて、元気な子は大丈夫と思っていて他のクラスにされたという気もする。
好きな人と別れてしまう淋しさを学習してしまった。五年になり身長も伸びず、変化の無いクラスにモチベーションがどんどん落ちていった。よそのクラス担任だった大滝先生は、三太を市役所で収録する市内向けの学校放送や、台詞は一つしかないけど学年劇の出演など、チャンスを何度かくれた。しかし普段の会話と違い、考えていることが素直に言えず、後悔が残った。発表の機会などがあるときは、準備して望まなければならないこともあるようだ。そしてまもなくして先生は日赤病院に入院した。その後何回も先生と合う機会があり、ふるさと長岡に帰ると友達を呼び出し飲みながら先生に電話したものだ。いつの間にか先生の年を越え、すでに我々は解放され、リリースされている立場であることに感謝したい。私たちは心を通わせ、先生とどこかでつながり、そして見送られたのかもしれない。先生の死を機会に皆に会えた時は、懐かしく又嬉しかったことを覚えている。後輩にもそして新潟県内にも同じ同志がたくさんいるように思う。だからこそ、その懐かしい母なる川を目指し『親猫こねこ』や『まだ見ぬ仲間たち』との再会を楽しみにしている。
                  
                  20080215 三太 ・平井 真夫

2009年4月30日木曜日

合同打ち合わせ/顔合わせ・大滝陸奥先生

20090426長岡駅前の割烹松本で何は兎も角、こねこクラスとあゆみの会の有志で交流会を行った。
こねこクラス(s22~23生まれ)横山君、棚橋君、私平井そしてあゆみの会(s24~25生まれ)岩淵君、大野君、和栗(高橋)さん、木村(志田)さんでした。
大滝陸奥先生も毎年としを取り、経験を積んでいかれた様子がお互いの話の中から感じられた。教師も失敗やら確信やらいろいろあることだろう。各々体験は異なってもそこに流れる精神が同じであり、年の差は感じない??楽しい会であった。

又やりましょう!!三太(こねこクラス)

あゆみの会木村さんからメール・大滝陸奥先生

電話をありがとうございました。
今出かけていた所から帰って来て、ほっとしたところでメールを開きました。
まだまだドタバタ人生は終わりそうも無く、ゆっくり自分の時間を持つとか、落ち着いた時間とかは夢見る事で終わっています。
原稿を興味深く見させていただきました。
読みながら、確かにこれは私達のクラスではないはずなのに、どこか情景が似ていて、私達の大滝教室とダブってしまいます。
ああ、先生は私達の前にも同じことをしていたんだね~って。

おっしゃるように、先生はあの若さでも、いつも自信に満ちていて、子供たちに伝えたいこと、させておきたい事、がはきりしているようでした。
いつも一人で考えたり行動するんではなく、仲間を意識させました。
一人でいる子にスポットライトをあてて、なんとかして皆の仲間に入れるように、私達自身から行動が起きるよう仕向けました。
皆、一人残らずクラスのどの子も大切な仲間なんだと思えるような、先生の取り組みがありました。
もともとの当時五年生、~六年生の私にとっては、なにが大切かなどを真剣に考える日常はなく、学校はただ言われた事をやるだけ、家に帰れば、日が暮れるまで夢中になって遊ぶだけ。
そんなところに、戦争の悲惨さ、食べ物の大切さ、日本語の美しさ、などなど大人扱いされて、しっかり伝えようとする先生の言葉は強烈に心に残り、後では尊敬も出来た親さえも頼りなく見えて、先生の言うことだけが自分の世界で最重要な事と感じ、よく親に意見をしてしまいました。

つい平井さんの文章に引き込まれて、私の記憶の糸口まで開かれていくのを感じます。
遅くなりまた明日が早いものですから、今日はこのくらいで記憶の窓を閉じておきます。
また後日続けて書けるかもしれません。
黒板のように勝手に書き込んでしまいました。
ただ見せていただきました、という返信のつもりが、こんな長い文になってしまいました。
ここをお借りしたら、少しは文章を書けるのかもしれません。書けたらまた送らせていただきます。

     木村(旧姓志田)正子(あゆみの会)20070217平井へのメールから

2009年4月22日水曜日

こねこクラスの教室・大滝陸奥先生


                         50人クラスをベースに机の配置をしてみた。後方の席がもしかして二列かも??何は兎も角特別なレイアウトで楽しかった。始めの席から席替えごとに思い出があり、7回までは記憶がある。叱られたいり、甘酸っぱかったり、さびしかったり、恥ずかしかったり、咳き込んだりと、沢山の思い出と隣りの人そして席がセットになっていてセリフまで思い出せる。確かでないけど心の中だけの確かな温かい思い出だ。先生に感謝している。
スケッチ:三太(平井 真夫)

こねこクラス最後の写真・大滝陸奥先生


小学校4年生10歳「三丁目の夕日:オールウェイズ」の時代。私たちにとって小学校の若い熱血先生はスーパーヒーローであった。まだテレビや月光仮面が現れる前夜の貴重な3.4年であった。今でもこの仲間たちと会う時が故郷そのもののように想える。大滝陸奥先生に会いたい、叱ってもらいたいそして褒めてももらいたい。一人ひとりに光を会っててくれた先生は自腹で当時貴重な写真を皆にくれた。この写真は「こねこのクラス」のプライドで宝物だ。新潟県内の大滝フアンからの原稿を募集中です。

よそのクラスの子たちと・大滝陸奥先生

どうしてジュンイチ(前田旬一君)がこの写真を持ってるんだろう??5年生の感じ?小林一茶のトコかな??

体育館に面した中庭、板塀や子供たちの表情、服装に当時の空気を感じます。
俺たちは馬とび(醍醐味のある潰して何ぼの楽しい遊びに夢中だった)に明け暮れていた。

この庭でクローバをあの子は編んでたナー!(三太)

こねこクラス4年生・大滝陸奥先生

ジュンイチ提供の写真だ。何でもクラブ、委員会の一つだが、四葉委員会のメンバーはすごいメンバーだ。
三太は99で精一杯だったなー!!

2009年4月17日金曜日

改めて思うこと・大滝陸奥先生

まだ、心の奥にたくさんたくさん思い出がしまってあるはず。年を重ねるにつれ、過去の記憶も薄れがちですが、今改めて思います。自分の子供が小学生の頃、学校や先生と関わっている時に、自分のあの頃の毎日の出来事や先生や友達と交わした会話や思いが影響していることを自然と感じます。
最近の悲惨な多くの事件を聞くにつれ自分の子供時代と比べると、当時は、周りの人々との多くの関わり合いがあったことを有難いと感じ、今の子供たちが失った多くの宝物を感じます。
  木村正子(あゆみの会)

大滝陸奥って???・大滝陸奥先生

時系列で捉えることは、不可能なので断片的に記憶を羅列します。算数の授業に黒板が足りなくなり板に墨汁を塗り使用したこと、漢字退治と称して皆が憶えるまで一問ずつやったこと、さらに竹之高地小との交流、笹川流れでの民宿のことなど、さまざまおもいだされるけど、なにより大滝学級の仲間意識は他のクラスに比べて強かったと思う。
でも、本当にこんなによいことづくめだったのだろうか?58歳になって改めて、あの教室で起こった様々な出来事について、そして、大滝陸奥そのものについて、自問し、自答し、そしてまた自問しています。
とかく、思い出は美しくなりがちだが、ただ言えることは、彼は46年前の多感な年頃の私たちに何らかの影響を及ぼして、私が今ここに生きていると思う。 

 鰐淵義博(あゆみの会)

2009年4月16日木曜日

大滝学級では・大滝陸奥先生

みんなで笹川流れに行ったこと、川で歯を磨き顔を洗ったことを懐かしく思います。今もそのまま綺麗でしょうか。見に行きたいと思います。いつのことか級友に会えることを楽しみにしています。
 
 下条ふさ子(あゆみの会)

2009年4月15日水曜日

水洗トイレ初体験・大滝陸奥先生

水洗トイレなるものを使ったのは、小学校の旅行で行った新潟市の小林デパートが初めてでした。旅行の前に、大滝先生が使い方を説明してくれましたが、実物をみたことがない私にはチンプンカンプンで、心の中で『デパートでは便所(当時トイレという言葉にも慣れていません)には行かない』と決めていました。ところが見学中に急に便意に襲われ、不本意ながら1階のトイレにしゃがむことになってしまったのです。
用を足してレバーを押すと勢いよく水が流れました。ところが水がなかなか止まりません。『このままでは溢れてしまう』心配になった私は何回もレバーを押しましたが、意に反して水は勢いを増すばかりです。バスの集合時間は既に過ぎています。逃げるようにトイレを出てバスに乗ろうとした私を待っていたのは、心配そうな顔をした大滝先生でした。
『どうした』と軽く頭を押しながら聞いてくる大滝先生に、『ううん』としか答えようがありませんでした。バスの座席に深く腰を沈めた私に大滝先生は時折心配そうに目線を送ってきました。でも『トイレの水が止まらなかった』とはとても言えませんでした。
クラスの中には私が思いを寄せる女の子がいたのです。もともと彼女に相手にされていないことは、辛いながらも何となく分っていました。当時、長岡地区、少なくも神田小学校の学区は下水道が完備していませんでしたので、愛おしい君も落下式を常用していた筈なのですが、少しでも格好良く思われたいと願う男の子にそんなことを考える余裕はありません。恥ずかしい排泄行為のことを隠す気持ちで一杯でした。
大滝先生の心配そうな眼差しに、私は力なく作り笑顔を返していました。内心では『デパートがトイレの水で水浸しになったら、どうしよう』と心配しながら。
      昭和35年卒 近 藤 僚 三 (第二こねこ/5年一学期)

2009年4月8日水曜日

四年生こねこ・大滝陸奥先生


無邪気だった!けど異性(充分気にしてた。)の肩に手をかけるなんて恥ずかしかった。先生は面白がっていたのだろう。
クラスの席替えは自分の名前と並びたい異性を明記して箱の中に入れる。先生が混ぜて片っ端から引いていく。早い順だから相思相愛でも第三者が指名すればいい人を持っていかれる。
投票前のフリートークのときに挙手して指名も出来、全てに優先していた。相手のあることだけど?
何事も自発的でないとここでは冷や飯を食わされた。
皆このクラスが好きで弱い子を強い子が守った。
勉強なんて出来なくても平気だったが!先生は通信簿の連絡欄に親に宛てて少しは勉強するように書いてあり、ギョッとした記憶がある。
ある日、先生に全員のいる教室で誰と結婚するかと聞かれ、仲のいい同性と結婚すると言って、それはだめ!と言われてキョトンとしてた。

親友・大滝陸奥先生


60過ぎても酒を飲む。何時までもそうしたい。

各種委員となんでもクラブ・大滝陸奥先生


誰彼なく全員に仕事や役割りがあり、ガリ版なんか訳もわからず弄っていた。
勿論掃除の時はクラス全員でパンツになって油雑巾で床を拭いた。手を真っ黒にしながらも楽しく掃除したものだ。パンツが切れてると「柿」と「エンド豆」に笑われ!「しょーし」かった。二人は美人姉妹みたいだった。やはり恥ずかしかった。

3年鯨波遠足・大滝陸奥先生


島津さんやエンド豆がいる。前田や佐藤礼子ちゃんは未だ来ていない。だから三年のベストメンバー!
岩の途中に留まるのが大変だった。
今ならこんな集合写真取れないだろう!
悪ガキでも皆あどけなくて、可愛い!!
三太とトコの親が頼まれて参加したらしい??懐かしい!!

2009年4月7日火曜日

こねこクラス1956(s31~32)・大滝陸奥先生



4年生の最後にこねこクラスが別れ別れになる前にと、先生が自腹で写真屋さんを呼んで撮ってくれた写真。
この中にはいない子猫を忘れてはいない。島津さん、エンドウマメ(遠藤さん)。